Sakamotok020605   坂本香織

 

   ナイジェリアからカメルーンまでの大きな流れ

    初めて2市町に視察に来たのが2001年の823日。ナイジェリアとカメルーンは同じ日に同時に来ていた。

http://www.mainichi.co.jp/entertainments/sports/worldcup/worldcup/venue/0108/24-01.html(視察に来た時の記事)

     ナイジェリアから初めて誘致の打診があったのがそれからおよそ4ヶ月後の124日で、その後の話し合いで費用の格差の問題などがあったが、年が変わって2002年の124日には市長はキャンプ地にほぼ決定しそうだと会見した。

     その後話し合いはなんとか進み、220日には実行委員会が設立され、24日にはナイジェリア駐日大使も訪れるなど、順調そうに見えたが、

    その同じ24日にナイジェリアは神奈川県の平塚市を視察に訪れ、翌日の25日にも契約をまとめることで話がついた。そして26日に結局平塚と

    調印する結果となった。

       http://www.mainichi.co.jp/entertainments/sports/worldcup/worldcup/venue/0202/26-07.html(初めて平塚に決定したと知らされた

                                                             ときの記事) 

       http://www.mainichi.co.jp/entertainments/sports/worldcup/worldcup/venue/0202/27-06.html26日の調印を受けての市長の会見)

     この会見で市長は、代理人がナイジェリアとの間ですでに条件面での事前承諾書を得ていることに触れ、代理人はまだ誘致を諦めておらず、

    最終的な判断は代理人に任せるとし、肩をおとしながらも、まだ誘致断念は否定した。

    

     それから2日後の228日にカメルーンが視察に来た。このときまだ新潟県新発田市がカメルーンとの交渉を続けており、市長はナイジェリア

    のときの二の舞を踏みたくないとしてあまり乗り気ではなかった。だがその翌日の31日に、新発田市の誘致断念の発表をうけてカメルーンの

    誘致に乗り出すことを発表した。その2日後の33日に正式に調印となった。

        http://www.mainichi.co.jp/entertainments/sports/worldcup/worldcup/venue/0203/02-06.html(カメルーンとの交渉を発表する市長の

                                                              会見の記事)

        http://www.mainichi.co.jp/entertainments/sports/worldcup/worldcup/venue/0203/04-02.html(調印のときの記事)

     この決定にはナイジェリアの失敗で面目ないからカメルーンとの誘致を強行したとか、費用の面や市民との交流の問題とかさまざまなことが

    あいまいで、さらにその不手際をかくすように契約書の公開を拒否したといったようなことがかかれている。